STORY

「接着剤一筋 」に生きた
創業者・今村善次郎。

今村善次郎の誕生とセメダインの設立

後にセメダインを創業する今村善次郎は、初代清水屋五郎兵衛から9代目となる今村五郎平の次男として明治23年(1890年)に富山縣射水郡掛開發村大字掛開發村(現在の高岡市大坪町)に誕生しました。

学校を卒業後、一時期苦労して長野や大阪で働いた善次郎は、18歳になると都会での成功を夢見て東京へ。見ず知らずの土地で様々な仕事を渡り歩きました。その間に善次郎は接着剤の将来性に着目し研究に着手します。その当時、日本ではイギリスのメンダインなど輸入接着剤が広く使用されており、善次郎は国産の接着剤の開発に闘志を燃やしていました。

そして苦節四年目の大正12年(1923年)、奇しくも関東大震災で東京が壊滅的な被害を受けた年に国産接着剤が完成し、「セメダイン」と命名して販売を開始します。しかし当初は欠点も多かったためその後何回も試行錯誤を重ねて改良し、昭和13年(1938年)にようやく作り上げたのが透明で何でもよくつく「セメダインC」となり、これが大ヒットを記録します。同時にセメダインの名前も徐々に日本中に広まり、さらに、戦後は家庭用だけではなく工業用接着剤の分野も幅広く手掛けることで、名実ともに日本一の接着剤専業会社をつくり上げたのです。

大型宣伝カー

動物園協賛広告

今村善次郎の天才的なビジネスセンス

「セメダインC」がライバルの輸入品を圧倒した背景には、善次郎の天才的なビジネスセンスがありました。

まず「生あるものは死し、形あるものは壊れる」という信念に基づき「形あるもののある限り、これを補修する接着剤の需要は無限のもの」として、接着剤の将来性に目をつけた善次郎。「なんでもよくつくセメダイン」という誰もが瞬時に理解できるキャッチフレーズで、「接着剤」という言葉を新しい「カテゴリー」として確立。さらに、赤・黒・黄という大胆な配色のデザインで「セメダイン」のブランドを育てていきました。

販売ルートの確立や広告宣伝への投資などで普及を進めましたが、その中でも特にポイントとなったのが模型飛行機やプラモデルとの「セット販売」です。子どもから大人まであらゆる層の国民が自然と製品を手に取る状況をつくり出したことで、国民の暮らしに欠かせない必需品となっていったのです。

ホーロー看板

今村善次郎が残した教えを後世につなぐ

自宅でくつろぐ善次郎と妻のさき

お酒を好む天真爛漫さと庭園を愛でる温厚さを併せ持った人柄で、妻のさきをはじめ、家族や従業員に愛されていた善次郎でしたが、1965年頃から体調を崩し始め、1971年の新年早々、79歳でこの世を去ることになりました。

今は亡き善次郎ですが、そのスピリットがセメダインの従業員に受け継がれていることは言うまでもありません。社会貢献できる「製品」にお金をかけることを優先とし、それ以外の部分では極力無駄を省き資源を有効に使うこと。世の中の動向を見極め、未来がどうなっていくか予測しながら行動すること。そして、何よりも現場を大切にして従業員の意見をしっかりと聞くこと。

セメダインではこれらの教えを継承していくことで、善次郎亡き後も時代が求める製品を世に送り出し続けているのです。「終生、接着剤一筋 」という信条を胸に人生を送った善次郎。彼が世の中に残した功績は、計り知れません。